「さびと腐食」

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2017/03/27 15:32:00|腐食と防食のページ
日本における古代鉄の起源と歴史
 鉄および製鉄技術は中国から朝鮮を経て日本にもたらされた。日本列島では弥生時代前期、紀元前3世紀初期に鉄は中国から伝わってきたが、日本独自に製鉄が始まったのは5世紀後半まで待たなければならなかった。古代中国では紀元前700年頃には鉄が出現したものと考えられ、前漢の武帝時代(BC120年)には塩鉄制度が設けられ、流通が制限されるほどに広まっていたから、日本への伝来はかなり時間が経った紀元100年頃と考えられる。さらに、日本が独自に鉄を製造できるようになったのは、早くても紀元500年頃とかなり遅くなってからである。それは紀元1世紀頃から九州地方の遺跡で鉄器が発掘されていることから、伺い知ることができる。
稲荷山鉄剣の鉄
 日本の製鉄が始まったのは6世紀頃と推測されるものの、はっきりした根拠は明らかではない。昭和43年、さきたま古墳群の稲荷山古墳の発掘調査が行われ、金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)が発見された。金錯銘鉄剣の表裏には117文字が刻され「辛亥年七月中記・・・」と記されていたことから、鉄剣は西暦471年頃のものと推定された。当時、日本ではまだ鉄は造られていなかったから、この鉄は中国ないし朝鮮から渡ってきたものと考えられ、日本で加工、鍍金されたものと推定される。
たたら製鉄と玉鋼
 日本における鉄製錬はいつ頃始まったかは明らかではないものの、日本では「たたら製鉄」が行われた。製鉄原料は山陰地方で産出する磁鉄鉱石(砂鉄)が用いられ、土製の炉に還元剤になる炭と鉄原料の磁鉄鉱石を加えて熱し、炉に鞴(ふいご)で風を送り、高温に加熱して半溶融の鉄、銑鉄、鉱滓に分離して鉄をとりだした。出雲地方におけるたたら製鉄は江戸時代から明治にかけて行われていたがその後衰退した。このようにして得られた和鋼(玉鋼)は刀剣類に用いられたが、次第に生産が減じ日本刀の製作にも事欠くこととなり、昭和52年に日立金属(株)安来工場でたたら製鉄が再現されたが、その後は途絶えている。島根県雲南市吉田町の山内地区には「菅谷たたら」が残っている。三刀屋街道を遡った標高350mの奥深いところに川に面して高殿があり、そこに土でできた炉が築かれている。たたらは原料の砂鉄と還元剤としての木炭を積み重ねて三、四日かけて高温に加熱後、冷却してヒ(けら)を取り出し、それを砕いて中から良質の玉鋼が得られる。
 日本のたたらは中国の錬鉄の流れを汲むものと考えられるが、その起源はなお明らかではない。古墳時代以降、国内各地の遺跡から鉄剣や鉄器が発掘されているが、少なくとも西暦600年以前には日本で造られた鉄ではないと考えられている。
宮崎県島内古墳
平成20年2月、宮崎県島内(しまうち)地下式横穴墓群から出土した鉄太刀、鉄鏃、鉄甲冑、鉄兜などが平成24年度の新たな重要文化財に指定された。平成24年4月28日東京国立博物館において平成24年新指定国宝・重要文化財として特集陳列が行われたのを機に参観することができた。鉄太刀は長さ98.2cm、刃部幅3.6cmで、柄の部分には龍文銀象嵌が施されている。全体に厚いさびで覆われているものの完全な太刀の形が一体として保たれている。鏃も数点あり同様に形状は明確に保たれている。
これらの鉄製品は古墳時代(紀元6世紀中期頃)に被葬されたものと考えられ、1,450年経過した古い鉄遺物である。6世紀代の墳墓ではこれまで龍の描かれた刀が、奈良県の新沢327号墳(橿原市)と吉備塚古墳(奈良市)で2例見つかっているという。今回の島内墳の太刀はとくに新沢327号墳のものに酷似しているとされる。畿内から遠く離れた宮崎県との間に交流があったことを示すものとして注目されている。これらの鉄は中国あるいは朝鮮を経由したもので、日本の鉄ではないと考えられる。
正倉院宝物の鉄
 平成24年11月の第64回正倉院展では、鉄方響9枚が展示され、いずれも赤錆で薄く覆われている。ひもで吊るして打楽器として使われたという。縦10.4cm、横4.5cm、厚さ0.5cmで上方中央に角穴がうがたれている。これを紐で吊るして桴(ばち)で打ち鳴らして再現した響きが会場に流れていた。かなり澄んだ高い音色だ。説明によれば中国では唐の時代に鉄製の方響が広まっていたという。敦煌莫高窟の中に方響を演奏する菩薩の姿が彫られているという。鍛造品であるが表面はなめらかである。薄暗い会場の光では黒っぽく見えるが、正倉院展目録を見ても明らかに赤さび色を呈している。以前に正倉院展で鉄製の鏡がさび一つない姿で展示されていた記憶がある。いずれにしても聖武天皇の時代(724〜749)であるから今から1300年以上も前になる。おそらく中国製であろう。稲荷山鉄剣はこれより200年くらい前になる。
  平成27年の第67回正倉院展では銀、銅、鉄製の大きな針が出展された。鉄針は長さ19.5cm、径0.45cmで重さ18.7グラム、上端部には楕円形の穴が穿たれ、糸が通された形跡が見られる。光明皇后の時代に献納されたものであるから、西暦750年頃の鉄であるから、たたら製鉄による国産の鉄の可能性は考えられるが、鉄の加工技術から考えて唐の時代に中国からもたらされたものであろう。
 陽剣と陰剣の鉄
明治時代(1907)、東大寺大仏足下から出土した国宝「東大寺金堂鎭壇具」の金銀装大刀二振が2010年10月に行われたX線調査で「陽劍」「陰劍」の象嵌銘が施されていることがわかり、これが「国家珍宝帳」に記載され、その後「徐物」として正倉院から離れた「陽宝劍」「陰宝劍」であることが明らかになった。実物は東大寺ミュージアムに展示されている(写真右:元興寺文化財研究所パンフレットより転載)。1250年以上も土の中にあったためかなり腐食しているが、全体的に形状は原型をとどめ、長さが98cmにもなる直大刀である。国家珍宝帳のリストの中には百振にも及ぶ大刀が納められているが、正倉院に保存されているものは今も錆びずに光り輝いているという。聖武天皇崩御の後、光明皇后が正倉院から大仏足下に移されたことから国家珍宝帳に徐物と記載があるものの、行方不明となっていた。両劍は聖武天皇の遺愛の品で金堂鎭壇具とあるところから、大仏殿を建立する前の壇を鎮めることを意味するが、実際は建立後に埋納されていることになる。光明皇后が何故、聖武天皇崩御後に両劍を正倉院から大仏殿に移して埋能されたのか明らかではないが、聖武天皇が最も情熱を注いだ大仏足下に遺愛の両劍を埋納したのではないかと考えられている。当時、聖武天皇がこの長い大きな太刀を所持していたことは権力者にふさわしいが、もし敵対者が現実にこの太刀を所有すれば大きな脅威になったことは想像される。
(2017.3.27)
 
 




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錆びた鉄剣の出土
江田船山古墳と稲荷山古墳とつながりがあり埼玉から熊本に及ぶ政権があったということでしょうか。六世紀頃に宮崎と奈良で龍が描かれた刀剣が見つかっているのも、こんなに遠隔な地での交流を伺わせるのも興味ぶかいことです。
藤井哲雄  (2017/05/26 10:42:26) [コメント削除]

意義有る錆びた鉄剣の出土のお話
 昔から言われている邪馬台国論争は、史料が極めて少ないことから結論は出せないというのが本当のところですが、一方、ヤマト政権の成立については、埼玉県行田市の稲荷山古墳で出土した鉄剣の銘から、重大な知見がもたらされました。その鉄剣は、1968年に出土、1978年の調査によって、刀剣の赤錆の下に隠れて金の象嵌で銘文が書かれていたことが分かったのです。その銘文によりますと、ヲワケという鉄剣の持ち主が、ワカタケル大王に仕え、天下を治めるのを補佐した、それを記念して辛亥の年(471年と推定)にこの鉄剣を製作したというのです。かつて、熊本県玉名郡の江田船山古墳から出土した鉄剣に書かれた銘文もワカタケル大王だと考えられるようになり、つまりは、関東の埼玉から九州の熊本にまで及ぶ政権が在ったことがほぼ判明したのです。この頃の日本の歴史は、古事記や日本書紀の多分に伝説的と言える記述に、中国の歴史書に書かれたわずかな情報を対比させ分析することによって構築されて来たのです。しかし、これに発掘の成果が加わることで、裏付けが出来たと言えます。<出典…「歴史をつかむ技法」山本博文著>
五木田 功  (2017/05/22 1:29:36) [コメント削除]

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